清鱗ブログ まだまだ半人前おかみ

南魚沼浦佐にある小さな寿司屋のおかみの

長女の授業の参考に。

長女は学校での社会の授業で戦争について勉強しているところです。

先生は教科書には載っていないけどでも大切なことを学んでほしいということで、おじいちゃんおばあちゃんの戦争時代の話を聞いて調べてくる宿題が出ました。

我が家のおばあちゃんからは小さい頃の生活の体験を聞いていました。
私の実家のじじちゃからは、樺太抑留の話を聞いていました。

私の実家のじじちゃは現在89歳です。元気で自転車に乗って出かけていきます。
じじちゃは新発田歩兵16連隊の北方派遣軍に属し、21歳~24歳までは中国へ、25歳~29歳までは択捉に戦争へ行っていたそうです。択捉へ行っていた時にロシア船で樺太へ抑留されたそうです。

そこから冬は木の伐採をしソリで運び、温かい時期には道路工事の労働をしていたそうです。
食べ物は1日1回、黒パンと生のイワシ半分を配給されていたのですが、食べ物が足りず困ったそうです。
住んでいたところは木の家で、寒さを防ぐために山から土を運んできて屋根や壁に押し付けて暖かくしていたようで、冬は氷点下で寒かったそうです。

昭和23年10月にソ連軍に帰るように言われ、樺太から北海道まで船で、北海道から青森までも船で、青森から新発田までは汽車で、駅から自宅までは徒歩でようやく家にたどり着いたそうです。(1週間位かかって)

じじちゃは筆不精で帰れるという葉書を出さないで帰ったので、家族はびっくりして喜んだそうです。
じじちゃは自分のいない間に稲がどうなっているのか心配だったけど無事稲刈りが終わっていて安心したそうです。次の日は無事に帰ってきた報告に村(15軒位の村です)を回ったそうです。村に戦死した人が5人いたそうで水あげ(仏壇に水をあげ手を合わせて冥福を祈る)に行ったそうです。


じじちゃから戦争の話を具体的に聞いたことはなかったので、大変な体験をして大変な思いをしてきたんだなあと思いました。長女も同じ思いだったようです。
じじちゃがいなかったら今の自分も子供たちもいません。
今回この実体験が聞けたことを大切にし、次の時代に受け継いでいく使命であるような気がしました。

私が小さい頃は自衛隊祭りがある時にはじじちゃは戦友の方を自宅に招待していたような気がします。
今は年賀状だけの行き来のようですが、すごく大切にしているのがわかりました。

子どもたちには授業では戦争が何故いけないのか、日本にも戦争時代がありどういう状況だったのかしっかり感じとってほしいと思いました。さらにその次の時代の子供たちにも受け継いで欲しいです!